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長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 CULTURAL HERITAGE

原城跡

原城跡

全国的に禁教政策が進む中、原城を主戦場とした「島原・天草一揆」は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、カトリック宣教師の潜入の可能性があるポルトガル船の来校の禁止と2世紀を超える海禁体制(鎖国)の確立、これに続く国内宣教師の不在という状況をもたらしました。
これによってキリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくこととなりました。

平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳、中江ノ島)

春日集落と安満岳 中江ノ島

禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場とするとともに、キリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の対象であった安満岳なども併せて拝むということによって信仰を実践しました。
解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けましたが、現在では個人的に信心具を祀る程度になっています。

天草の崎津集落

天草の崎津集落

禁教期の先津集落の潜伏キリシタンは、大黒天や恵比寿神をキリスト教の唯一神であるデウスに、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアにそれぞれ見立てるなど、漁村特有の生活や生業に根差した身近なものをキリシタン信心具として代用するということによって信仰を実践しました。
解禁後はカトリックに復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

外海の出津集落

外海の出津集落

禁教期の出津集落の潜伏キリシタンは、自分たちの信仰を隠しながらキリスト教由来の聖画像をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとすることによって信仰を実践しました。
また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へ広がることとなりました。
解禁後、潜伏キリシタンは段階的にカトリックに復帰し、集落を望む高台に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

外海の大野集落

旧木型場

禁教期の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象をひそかにまつって拝むことによって信仰を実践しました。
また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へ広がることとなりました。
解禁後はにカトリックに復帰し、「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていましたが、その後、大野集落の中心に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

黒島の集落

黒島の集落

19世紀、長崎地方各地の潜伏キリシタンの一部は、黒島の牧場後の再開発のために移住が奨励されていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、表向きは所属していた仏教寺院でマリア観音に祈りをささげながら、ひそかに、共同体を維持しました。
解禁後はカトリックに復帰し、島の中心部に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

野崎島の集落跡

野崎島の集落跡

19世紀、外海地方から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、沖ノ神島神社の神官と氏子しか人が住んでいなかった野崎島を移住の適地として選んで移住し、神社の氏子として信仰をカモフラージュしながら、ひそかに共同体を維持しました。
解禁後はカトリックに復帰し、野崎島の中央部と南部の2つの集落にそれぞれ教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

頭ヶ島の集落

頭ヶ島の集落

19世紀、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、病人の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住し、ひそかに共同体を維持しました。
解禁後はカトリックに復帰し、禁教期における指導者の屋敷の近くに教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

久賀島の集落

久賀島の集落

18世紀後半以降、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、五島藩が積極的に久賀島に開拓移民を受け入れていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、漁業や農業で彼らと互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持しました。
解禁後はカトリックに復帰し、島内の各集落に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えました。

奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

19世紀、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、奈留島の人里離れた海に近い谷間に移住し、自分たちの信仰をひそかに続け、解禁後はカトリックに復帰して地勢に適応した江上天主堂を建てました。
江上天主堂は、禁教期の集落との連続性を高く示し、風土に溶け込むように立地するとともに、在来の技術が用いられた教会堂の代表例です。

大浦天主堂

大浦天主堂

日本の開国により来日した宣教師と潜伏キリシタンは、2世紀ぶりに大浦天主堂で出会いました。この劇的な事件は「信徒発見」と呼ばれ、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えました。
その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触によって転機が訪れ、カトリックへ復帰する者や、引き続き自分たちの信仰形態にとどまる者、神道や仏教に改宗する者に分かれ、「潜伏」は終わりを迎えることになりました。

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